資料作成/長田光男
奈良教育大学講師・大和郡山市文化財審議会会長
●順慶の大和統一
●光専寺と筒井順慶座像
●筒井城
●洞ヶ峠と順慶の死
●順慶と久秀
●順慶の生い立ち
 近鉄筒井駅の東北方、国道25号の北側に筒井の集落が発達しているが、その中央部に筒井順慶の居城がある。蓮池や湿地に囲まれて「シロ畑」と呼ばれる居館の跡があり、内堀や外堀の跡も見ることができる。
中世大和武士としての順慶の活躍と、攻防を繰り返した筒井城の跡を探ってみよう!!
筒井順慶法印について

 

 





  筒井順慶は大和の國添下郡筒井村に生まれた。父は順昭、母は山田道安の妹(大方殿)である。幼名は藤勝、のち藤政、得度して順慶と称した。僅か36年の生涯であったが大和武士の代表者として名を残した。※注(山田道安は福住氏と並ぶ東山中の地侍。彫刻、絵画の名手。作品現存)順昭による大和統一の仕事が漸く成し遂げられようとしていた。その年の10月には最後の宿敵越智氏を駆逐して、翌年(1546)には十市、越智、古市、箸尾の国衆を配下におさめた。
 ところが天文18年(1549)4月、突如順昭は4、5人の家来を連れて比叡山に隠れた。病苦の上の出奔であったが、筒井城内の騒ぎは大変なもので、祈祷して平癒を願ったがその甲斐なく天文20年(1551)6月20日、南都林小路の外館(円証寺)で死去した。27歳であった。順慶2歳の時である。臨終に山田道安をはじめ、一族、重臣たちに順慶擁立を誓わせ、また敵方へは死は堅く秘し、身代わりとして奈良に住む黙阿弥(盲目・琴の師匠)を立てるよう遺言した。黙阿弥は以後約1カ年順昭の役を果たした後、「もとの黙阿弥」に返ったという。
 順慶が幼少の間は、叔父、順政、一族の福住宗職、それに生母が後見役となって筒井一党の力を守った。父在りし頃から大和に於ける筒井氏の基礎が固まっていたから、一族、重臣の協力一致によって大和統一の業を成し遂げられたと言える。ただ、当時、大和は京都に近く、天下を狙う諸将の争いに巻き込まれ諸将との連衡を保つ必要があった。その諸将の勢力の興廃によって順慶は日和見的態度になることがあり、大和武士の持つ衆徒としての性格を脱しきれないこともあって、それが順慶の評価となって後日にまで伝えられることになる。


 

  
順慶の生涯においての宿敵は松永久秀である。順慶の11歳の時から29歳まで、18年間抗争を続けている。久秀は京都を中心に勢力を誇り、さらに大和を狙って永禄2年(1559)8月、信貴山城を築き、その翌年筒井党の所領を奪った。筒井一党は国外に亡命した。久秀はこの年多聞山城を築き、大和席巻に乗り出した。河内の布施城に退いていた順慶は久秀と抗争していた三好三人衆三好日向守長逸・三好下野守政康・岩成主税助友通)と結び、その援軍を得て攻勢に転じ、大和に入り、6月筒井城を復し、進んで南都に陣を張った。
 永禄10年(1567)多聞山城に拠る松永勢と、順慶・三好三人衆連合軍との間で東大寺・興福寺を挟んで対陣し、久秀は三人衆の陣した東大寺を焼き討ちした。大仏の首が焼け落ちた。10月10日のことである。
 永禄11年(1568)、織田信長の上洛によって畿内の形勢が新しい展開をし始めた。久秀は、いち早く信長に降り、その援軍2万を得て大和の攻略にかかり、順慶は筒井城を捨てて福住郷に逃げた。
 ところが、しばらくして形勢は逆転する。信長と久秀の関係が円滑を欠き、順慶が信長に近づくことになった。その仲介をしたのが明智光秀である。元亀2年(1572)5月、久秀は政敵3人衆と和して筒井党を一挙に討ち取ろうと迫ってきたが、信長の支援を得た順慶は久秀軍を打ち破り、ついに多聞山城を陥れた。天正元年(1573)12月であった。


 

  
天正10年(1582)6月2日、織田信長は明智光秀の謀反に遭い本能寺で死去した。光秀は京都で新しい政権を立てるために関係方面に協力を求める手を打った。しかし、丹後の細川藤孝、忠興はこれを拒否した。女婿の織田信澄は信孝のためにすでに大阪で殺されている。頼みとするのは筒井順慶ただ一人である。両者には深い旧縁があり、順慶は光秀の子を養子に迎えている。順慶は亡き信長とも堅い盟約を結び、そのおかげで大和の守護にも任ぜられたのである。筒井氏にとってはまさに一族存亡の岐路に立たされたわけである。世にいう洞ヶ峠に出陣して日和見したというのは事実ではなく、順慶は郡山城にあって軍議を重ねていた。洞ヶ峠まて来て順慶に圧力をかけたのは、むしろ光秀であり、11日になっても筒井方が郡山を動かないことを知ると、光秀は軍勢を返して下鳥羽に向かった。山崎での秀吉との決戦が行われたのは13日の午後のこと。秀吉によって惨敗を喫し、逃げ延びる途中小栗栖で土民に討たれて深傷を負い、自害して果てた。わずか10日の天下であった。
 順慶は京都の醍醐で秀吉から「曲事である」と厳しく叱責されたが、ともかく本領安堵を許された。秀吉に従ってから天正11年(1583)4月の柴田征伐に12年3月の江州征伐、同4月の勢州松ヶ島合戦、6月の勢州長嶋攻めに寸時のいとまもなく転戦するが、持病の胃浣痛が重くなり、天正12年(1584)8月11日、郡山城中で死去した。36歳であった。下克上の時代でありながら、上洛して天下を狙う野望もいだかず、ただ大和の掌握と家の安泰に尽くした大和武士の典型であったといえる。


 

  
信長は順慶に大和の支配を許したが、多聞山城は破城となった。
 順慶は天正7年(1579)8月1日まで多聞山の石を奈良中の人夫に筒井へ運ばせた。おそらく筒井城を大増築しようと考えたのであろう。ところが工事の途中で明智光秀の指導により筒井築城は中止となり郡山築城に切り替わった。天正8年(1580)8月、郡山、高取の二城を残して大和国中の諸城破却令が降り、筒井城は廃城となった。
 現在としては城の縄張りを正確に捉えることはむづかしい。わずかに寛文元年(1660)の古地図(【郡山町史】所収。古地図は所在不明)や土地改良区地図や実地踏査、それに地元古老の話によって推定するしかない。それが別図1である。
 初めは東部の出張りの部分だけであったのが、南北に通る吉野街道をも堀の内に囲み、城下町としての経営がなされたことがわかる。『多聞院日記』に筒井市のあったことを伝えるが、この街道筋に商家が並んでいたと考えられる。外堀は一部が湿地として残り総延長が20町と言われ、中世末の平城としては最大のものであった。内堀は中央の「シロ畑」(居館の跡)を中心として取り囲んでいたが、その跡らしきものが湿地帯や蓮池として残っている。特に東から南東の角にかけては顕著に現存している。内堀で囲まれた城の中枢部分は東西二町、南北一町半の規模と見られる。


 

 
順慶の大和統一は信長の援軍によってできたことであるが、まだ大和支配を完全にまかされていたわけではない。
順慶は信長との盟約を堅くするために、天正2年(1574)、自分の母と重臣向井・井戸を人質に差し出した。翌年には信長の養女秀子(12歳)が順慶の養嗣定次に嫁した。
 天正4年(1576)5月10日、順慶は信長から大和国の守護に任ぜられた。これを知った久秀はますます穏やかではいられない。天正5年(1577)、上杉謙信が西上して信長に決戦を挑もうとする時に信貴山城に拠って信長に反旗を翻したが信忠(信長の嫡子)を大将とする明智光秀と順慶の諸軍に攻められ、天正5年(1577)10月10日信貴山城は陥落、久秀、久通父子は自刃し果てた。
 天正8年(1580)、石山合戦が終わった機に、信長は一国一城の方針を立て、大和では郡山一城と決めた。筒井氏の多年の根拠地、筒井城は低湿地で不適当のため、これを捨て、その年の11月、順慶は郡山城を与えられた。




 
筒井城の外堀がめぐる北の端の地に幽西山光専寺がある。真宗興正寺派。永正11年(1514)筒井総道場として創立した。本尊は厨子入り木造阿弥陀如来立像で優雅な姿。江戸中期の作。寿福院に収められていた筒井順慶座像(市指定文化財)を保管している。寿福院はもと興福寺の寿福院であったものを筒井に移したと言われる。筒井氏の菩提寺で、長安寺に現存する順慶の五輪塔覆堂もこの寺が管理していた。寿福院は事情があって寿福禅院に、また寿福禅院も寺籍を失い、明治16年には日蓮宗、金岳山本門寺へ、そして現在は本門法華宗、金岳山本門寺へと変遷している。本堂・庫裡・土塀などの軒瓦には本門寺となる以前の「寿福禅院」の銘が残っている。小堀遠州作と伝えられる庭園や、八畳の洗心亭(茶室)がある。
光専寺に移されている順慶坐像は木造で、座高約70p。順慶は永禄9年(1566)18歳で僧籍に入り陽舜房と称したので、本像は重衣姿の僧形に刻まれている。天正12年(1584)36歳で死去しているので、像もその頃の姿を刻んだものとされ、造立は江戸初期と推定される。彫刻技術の衰えが見られるこの時代の作としてはかなりの優作と言える。
 厨子は背面の朱漆書により、文化9年(1812)2月に筒井氏縁故の人々によって造られたことがわかる。




※【参考文献】
「郡山町史」(郡山町長)、「大和郡山市史」(大和郡山市役所)、「ふるさと大和郡山 歴史事典」(大和郡山市)、「奈良県の歴史」(永島福太郎著、山川出版社)、「筒井順慶とその一族」(藪景三著、新人物往来社)、「奈良大和路の歴史を歩く」(藪景三著、新人物往来社)、「城と川のある町 大和郡山歴史散歩」(鈴木良著、文理閣)、筒井土地改良区地図