●徳川時代初期造庭。瀧を配した石組、飛石の打ち方、燈籠の在り場所等、織部から遠州によって大成された本格的枯山水が表現されており、手法は小さいながらもまとまったもので、山と瀧と渓流をあらわした遠州最初の築庭としてうなずかれる。庭の南に北面して建つ八畳の書院式茶席 は「洗心亭」と呼ばれ、遠州の居間であったとも伝えられている。遠州晩年の建築興福院の如き移転も無いだけに貴重な遺構と言わざるを得ない。筒井管内では、この種遺物として唯一のものである。
(江戸中期築山式枯山水庭園)


●建築庭園.生花.和歌.書とさまざまな才能を発揮された遠州の長編作は京都の桂離宮であり、短編作は筒井の寿福院(現本門寺)である。


●茶人好みの織部燈籠は、戸口氏、服部氏と、筒井の本門寺とに、三基存在する。本門寺の庭は杜鵑花の刈込みで濃やかに作られている。
以上【大和郡山市史】


●書院の東側の平地正面の築地塀寄りの中程に洞窟石組みのある築山を築き、左手に遠山石を立てて枯滝を組み、斜立石を混えて力強い石組みを組んでいる。
 【古庭園の観賞と作庭手法】(吉田徳治著 農業図書株式会社刊)


●今月は大和郡山市の庭園と文化財を見学する。午前中は郡山市内の神社仏閣、午後は小泉の慈光院と筒井の本門寺を拝観する。(中略)東南、外堀の内側にあり、天正12年創建の壽福院が前身で、もと興福寺にあった壽福院を筒井に移したと伝えられている。

●本門寺
筒井城(郡山城の約3000粁南)
筒井氏の菩提寺であるが、事情があって壽福禅院に。また壽福禅院も寺籍を失い、明治16年には日蓮宗金岳山本門寺へ、そして現在は本門法華宗金岳山本門寺へと変遷している。以前は筒井順慶坐像(江戸初期)が安置されていたが、今は外堀北方の光専寺に収められている。また長安寺町の順慶の墓所(五輪覆堂・重文)も以前は管理していた。
参考文献
「妙光・第四号」本門寺
「大和郡山つつい」筒井順慶顕彰会


●庭園
庫裡の東側に枯山水の庭園がある。寺伝では小堀遠州作と伝えている。左手に石組みされた築山があり、頂上中央は鋭い線の立石中心で組まれた須彌山石組みがある。築山右手に枯滝、更に右には厚みのある石橋が橋添石とともに豪快に組まれている。左右の築山の周囲は石で組んであり、鶴島亀島か、と思ったりするが、刈り込みの植栽が多すぎて良く分からない。手前は飛石が添えられ、右手の茶室「洗心亭」へと渡っていく。
邸庭には石灯籠が六本据えられている。飛石伝いに、縁先左に四角、途中さらに四角と織部、左築山上に六角、石橋右手に雪見、右築山に山灯籠が立てられている。この山灯籠は石組みの上に据えられているので、後補かもしれない。縁先の自然石の手水鉢は中々良い。
 植栽、特に刈込みを思い切って整理すれば、一級の枯山水に成る事、間違いないと思われる。当日の講義を楽しみにしたい。

     編集・記 佐藤昭夫
      平成15年3月
「京都・林泉協会三月例会資料より」
記述に見る本門寺庭園