当本門寺之義は最初筒井順慶候之菩提所、真言宗圓證寺塔中にして壽福院と称する寺跡なり。この圓證寺を奈良に移さんとするに当たり、其の菩提所たる諸書類は勿論順慶候尊像、霊位等菩提所と称するに必要器具、器械に至る迄壽福院に引継ぎ順慶候菩提所たる本寺と成し、圓證寺は如何なる都合か奈良林ノ小路町に移したりと云う

  筒井順慶候の菩提所壽福院へ対し豊臣御代大和大納言秀長公より順慶の菩提の為に境内[今の本門寺総境内なり]、及び本丸跡[筒井村の中央にあり、俗に城畑と通称す]、其の他順慶候墓地[大字長安寺に於て石碑小堂于あり]。此の3点を永代赦免の御墨付きを下げ給りぬ。
 其后、徳川時代となりて片桐石見守の領地と転じ、片桐家代毎に従来見地と定め壽福院に於ける宝器及び古書類等一切縦覧されたり。
 もとより、幕府筒井伊賀守より順慶忌永続の為に寄付されたる田面ありて、毎年8月11日順慶忌の法会を営み一村落中農工商残らず一日、乃至半日の休業を公に促し目下大字筒井の古来継続習慣之休業たり。
 而して天正年中真言宗高範と申す僧私立営繕を加え[年月日不詳]、後ち享保8年禅黄檗宗添下郡外川村發志院に譲り、しかも秀長公御墨付きは勿論付属の諸書類並びに其の器具に至る迄譲受けて、以て檗門派禅宗と変じ東明山壽福院と成し宝暦9卯年2月14日本堂重建の上棟式を行い[東明山壽福禅院僧寶林。現在建之]又、文政3年別室を再建し[僧慈海建之]、尚文久2壬戌年3月土蔵新築し[僧a山建之]、尚慶応4辰年庫裡残ら不営繕を施し[営繕の僧上に同じ]。
 然るに山村宮殿下折節御成りあらさせ玉ひ御真筆の揮はせ玉ふことのありとかや随分筒井に於ける元城跡たる相応の寺跡にして秀長公の御墨付きのまま幾百年の免税地となりしも既に御一新以還明治7年に至る迄古来習慣の順慶忌とて休業の例止めさりしも嗚呼無慚なるかな、同年4月壽福院兼務添下郡矢田村大字外川發志院住職歌崎琢成と云える僧之を廃寺出頭し、許可の上、發志院を辞し歌崎良造と改名し此の壽福院をしてそのまま歌崎家と改め俗家となし、以て皈俗、相続罷在候処仝16年2月当派信徒等協議の上、元壽福院跡を買い求め爰に寺院創立の出願を起し、已に仝年6月12日付けを以て御許可の御認可を蒙り、乃ち金岳山本門寺と名称し来れり。其後敢て不相替候成り。

 【本門寺開基 本教院日暉上人作成】
  明治24年